炭焼き小屋での煮炊きと言うと非常に不便なような感覚を覚えますが、昭和初期の野田原 (のうだはら) の台所は三和土で行われておりそれとさして変わらない状態であったのではないかと思われます。
確かに原釜 (はらがま) の台所とは比較のしよ
うもないほどみすぼらしいんですが、それでも珠子さんなどは原釜 (はらがま) と同程度の料理を炭焼き小屋に近いような粗末な台所で作って出したものでした。 良い妻になるためには何時の時代も無い中でどれだけ工夫をしたかに尽きると思えるのです。
それにもうひとつ、義道さんは食材は田畑で育てているものの台所にまでしゃしゃり出てああだこうだと動き回ったりしない人でした。 その点寛治さんは表面上そう見えて結構マメな方だったんです。
ふたりとも炭焼き小屋で寝泊まりしながら煮炊きするわけではなく、あくまでも安達家の食事を逢瀬の時間を取りたいがため作るだけのことなのでそれで良かったんだと思います。
かくして肉魚は寛治さんが、それ以外の食材はあるものを持ち寄って作り昼はそれで間に合わせ、残ったものは珠子さんに持ち帰らせることで寛治さんは安達家を支えようとしたんです。折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2024-02-10 06:00:00
4519文字
会話率:6%
安達義道さんを病院に送り込んだのち、どのようにして周囲にそれとわからぬよう両家の生活を送りつつふたりの欲望を満たし続けるかが問題となりました。 寛治さんはあんな性格ですから何時どこへなりと勝手に出向きフラフラしながら生活を送ることが出来ま
す。
しかし野田原 (のうだはら) の安達家は別です。 これまで一度だって義道さんの周辺に浮ついた話しなど持ち上がったことはありませんしましてや賢夫人の珠子さんが他人棒に堕とされたなどという噂が広まったことなどありません。 たとえ椎間板ヘルニアを患い入院中であるとはいえ、残された珠子さんがよそ様の漢相手に締め込みなどやらかしたとなればただでは済まない問題に発展します。
ですがふたりとも今が盛りです。 もし珠子さんが例えば入谷村に住んでいたとしたら人生はもっとバラ色であったはず、それを野田原 (のうだはら) で生涯暮らしていけというのは如何にも酷すぎます。
ましてや珠子さんは過去に寛治さんによって二度までも逝かされ堕とされ他人棒を受け入れる心地よさを知っています。 寛治さんが他の女で我慢するようなことにでもなれば珠子さんの気持ちがそれで済むはずがありません。 寛治さんは珠子さんのオ〇ンコを他の漢に渡さないためにも打開策を練る必要に迫られました。折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2024-02-09 05:00:00
5843文字
会話率:36%
状況が急変したのは義道さんがとうとうギックリ腰になったからでした。 左官屋の前までなんとか助手席に乗せてもらい帰れたのですが自力で降りることが出来ないんです。 仕方なくもう一度里まで引き返しそのまま入院となりました。
義道さんが入院中
ずっと野田原 (のうだはら) の家計を支えてくれたのがなんと炭焼き小屋でやり逃げしたはずの寛治さんだったのです。 彼にすれば何時ものやり方だったんですが珠子さんにすればこれほどありがたい存在は過去に至るも無く助かったんです。
なぜならば山川運送に誘ってくれた左官屋の池之原家は貧しく、とても野田原 (のうだはら) の仕事を手伝うとか経済的に援助できる状態ではなく、ましてや山川運送は義道さんのギックリ腰を見舞うどころがむしろ役立たずと切り捨ててしまいました。
ところが寛治さんは何時ものようにそれこそごくごく普通に里で買えるものを持って行き、封筒に何がしか潜め合わせて渡し、子供が学校に行ってる間に合間を見て珠子さんの農作業を手伝ったんです。 その何処が有難かったかと言えばそれは入谷村と野田原 (のうだはら) の生活水準の差ということになります。折りたたむ>>続きをよむ最終更新:2024-02-08 06:00:00
5352文字
会話率:8%